みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

落ち穂を拾い集めてはならない

「あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。」(レビ記19:9)

 

19章は、十戒をよりわかりやすく紐解いたような箇所だ。

 

上のみことばは、印象的だ。

なぜ落ち穂を拾い集めてはいけないのか。

カラスにやるためではない。

 

「また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(10)

 

それらは、「貧しい人と寄留者のために残して」おくためのものだ。

ルツ記には、ルツがボアズの畑で落ち穂を拾う場面があるが、まさにあの光景だ。

 

何度かふれてきたように、律法の底流には、神の人間に対する愛がある。

このような規定は、それをよく表している。

 

「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(18)

 

このみことばの後半は、イエスさまが最もたいせつな律法は何かと聞かれた際、「神を愛する」ことに続けて示されたことばだ。

真っ向から対立した律法学者たちは、読み飛ばしていたのだろうか。

 

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(32)

 

珍解答をくり返す老人をみなが大笑いする番組があったが、実に不快な企画だ。

聖書は、「起立せよ」と言っている。

 

当時のイスラエルの民のなかにも、これら神の戒めを重んじ、隣人を愛して誠実に歩んだ人たちがいたことだろう。

彼らはいつも主の愛を覚え、それに対する応答として、御前に歩んだのだ。

 

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(ガラテヤ5:14)

 

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