罪のきよめのささげ物
「族長が罪に陥って、その神、主がしてはならないと命じたすべてのうちの一つでも、気づかずに行ったが、後になって責めを覚える場合、または、自分が陥っている罪が知らされた場合には、ささげ物として傷のない雄やぎを連れて来る。そして、そのやぎの頭に手を置き、全焼のささげ物を屠る場所で、主の前でそれを屠る。これは罪のきよめのささげ物である。」(レビ記4:22-24)
4章では、「罪のきよめのささげ物」について語られる。
4つの種類の人たちに関する規定だ。
- 油注がれた祭司(3)・・・傷のない若い雄牛
- イスラエルの会衆(13)・・・若い雄牛
- 族長(22)・・・傷のない雄やぎ
- 民衆の一人(27)・・・傷のない雌やぎ・雌羊
これらはいずれも、気づいていなかった罪の宥めとなる。
くり返し出てくる、「後になって責めを覚える場合」という言葉は興味深い。
“良心が痛む”というやつだ。
なぜ「責めを覚える」のか?
主の律法を与えられているからだ。
「主がしてはならないと命じたすべてのうちの一つでも」とある。
もし律法がなければ、そこまで良心を責められることはなかった。
パウロは言った。
律法によらなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。(ローマ6:7-8)
人は毎日のように罪を犯す。
祭司はこれら「罪のきよめのささげ物」を、来る日も来る日も献げたと思われる。
けっこう忙しかったのではないか。
それでも人々の良心の癒しは一時的であり、きりがなかった。
それを本当の意味で終わらせられたのが、イエス・キリストだ。
ハレルヤ。
さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それは決して罪を除き去ることができませんが、キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。(ヘブル10:11-14)