祭司が、ある人の全焼のささげ物を献げる場合
「祭司が、ある人の全焼のささげ物を献げる場合、献げた全焼のささげ物の皮はその祭司のものとなる。」(レビ記7:8)
ここまで種々のささげ物について見てきたが、7章はそのまとめのような箇所だ。
1章のところでも述べたように、これらの細かな規定を読むのは骨が折れるし、退屈な気もする。
しかし、わたしはいま、『レビ記』を学ぶことに伴う祝福にあらためて気づかされている。
『レビ記』を学ぶ祝福、それは新約聖書の『ヘブル人への手紙』の理解が深まることだ。
そして、『ヘブル人への手紙』の理解が深まることとは、すなわち、キリストの救いの完全性をよりよく知ることにつながる。
したがって、『レビ記』はつねに『ヘブル人への手紙』と併せて読むのがよい。
冒頭の句にも見られるように、イスラエルの民は、自分で勝手にささげ物を献げるのではなく、祭司を通して献げる必要があった。
いわば、祭司は神と人との仲介者だ。
ところが『ヘブル人への手紙』は、キリストが完全な罪の赦しの道を開いてくださったので、ささげ物はもう不要になったと告げている。
罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。こういうわけで、兄弟たち、私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。(ヘブル10:18-19)
このような新約の教えは、祭司職にある人々には容易には受け入れられないものだったと想像できる。
自分たちがモーセの時代から綿々と受け継いできた職が、否定され、失われるのだから。
モーセの時代以来、祭司は民が持参したささげ物を屠るなどして神に献げ、民の罪の宥めとした。
誰一人、「あなたの代わりに私がいけにえとして死にましょう」と言う者はいなかった。
仮にいけにえになったところで、彼もまた罪人であり、完全な罪の赦しにはならなかったのだ。
キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(ヘブル9:14)
『ヘブル人への手紙』には、救われ方が書かれているのではなく、すでに救われたことが書かれている。
だから、勇気を出して、御国を目指して信仰に歩もうという励ましの手紙だ。
キリストは、レビ記の規定を廃棄されたのではなく、成就された。
それらがいっさい不要になるほど、完全に成就されたのだ。
救いのみわざは「完了した」。
この救いの事実をしっかりと受け取って、わたしたちもまた、信仰から信仰へと進もう。
しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。(ヘブル9:26)