みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

右の耳たぶと右手の親指と右足の親指

それが屠られると、モーセはその血を取り、それをアロンの右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に塗った。さらに、モーセはアロンの子らを近づかせ、その血を彼らの右の耳たぶ、右手の親指と右足の親指に塗った。(レビ記8:23-24)

 

8章には、アロンとその子ら、つまり祭司の任職のようすが記されている。

いけにえが屠られ、その血が彼らの「右の耳たぶと右手の親指と右足の親指」に塗られた。

 

そのいけにえは、彼ら一人ひとりの代わりにいのちを奪われた。

彼らの罪の贖いとして。

いけにえがいなければ、彼ら自身が死ななければならないのだ。

 

血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(ヘブル9:22)

 

「右の耳たぶと右手の親指と右足の親指」を触ってみよう。

ここに血を塗られることは、全身的な献身を表すという。

神に聞き、奉仕し、従い行く態度だ。

 

頭から足まで、すべてが受け入れられ、すべてを献げる。

 

アロンとその子らには、牛や羊の血が塗られた。

神はその血を見て、彼らの罪を見過ごされる。

 

わたしたちの「右の耳たぶと右手の親指と右足の親指」に塗られたのは、牛や羊の血ではない。

イエス・キリストご自身の血だ。

ならば、神がそれをご覧になって、まだ不十分とされるはずがないではないか。

 

ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19)

 

もうすべてのいけにえが必要なくなるほどに、キリストの血は完全な宥めとなった。

わたしたちは、その完全な救いを、素直に受け取ることができる。

ハレルヤ。

 

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。(ヘブル10:19)

 

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