みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して

「主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。」(出エジプト12:23)

 

いよいよ、もっとも恐ろしいさばきが始まる。

その前に、主はイスラエルの民に対し、つぎのようにせよと告げられた。

 

  1. 家ごとに傷のない一歳の雄の羊を用意する(3・5)
  2. 二週間見守ったあと、夕暮れにそれを屠る(6)
  3. その血を家の門柱と鴨居に塗る(7)
  4. 肉と種なしパンと苦菜を食べる(8)
  5. 帯を締め、履き物をはき、杖を持って、急いで食べる(11)

 

冒頭にあるように、この塗られた血を見て、主はその家をさばきに遭わせずに過ぎ越される。

 

「血」とは何だろうか。

レビ記には、こうある。

 

「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。」(レビ記17:11)

 

「血」は「いのち」そのものだと言われている。

ヘブル人への手紙には、こうある。

 

血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(ヘブル9:22)

 

エジプトは主によってさばかれた。

しかし、イスラエルはさばかれなかったのかと言えば、そうとも言えない。

なぜなら、イスラエルは自分たちの罪の身代わりとして、傷のない雄羊を屠ったからだ。

つまり、雄羊がイスラエルの民の身代わりとなって、さばきに服したのだ。

 

言うまでもなく、これはキリストの型だ。

パウロは、コリント人への第一の手紙でこう書いた。

 

私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。(1コリント5:7)

 

キリストを信じ受け入れた者は、門柱と鴨居に血が塗られた家のようなものだ。

主のさばきの御手は、その者を過ぎ越される。

 

きょう、新しく、キリストの血潮の力に信頼しよう。

神の怒りから救われていることを感謝し、主の御名をほめたたえよう。

 

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される。わたしの契約の血です」(マタイ26:28)

 

 

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