みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

私たちは聖なるもの

このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。(ヘブル10:10)

 

10章でも引き続き、キリストの救いの完全性が説かれる。

 

律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。(1-2)

 

ここに書いてあるのは、キリスト以前、すなわち律法の支配下にある時代のことだ。

ここから反語的に、その完全な救いをキリストが成し遂げられたと論じていく。

 

つまり、

 

  • キリストはご自分をいけにえとされたので、神に近づく人々を完全にすることができる
  • ゆえに礼拝する人たちは、きよめられ、もはや罪を意識することがなく、いけにえは終わる

 

ということだ。

 

罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。(18-20)

 

ところで、「もはや罪を意識することがなくなる」(2)とは、どういうことだろうか。

罪のことなどどうでもいい、考える必要はない、ということではないだろう。

そうではなく、自分を“神の怒りの下にある者”、“罪に定められた者”として見る必要はないということだ。

 

そう考えると、「悔い改め」の意味も変わってくる。

律法の時代においては、悔い改めは、神の怒りをなだめ、神に受け入れてもらうためのものであった。

しかし、キリストにある恵みの時代においては、悔い改めは、きよめられた者としてふさわしく歩むためのものであり、完全なきよめに立ち返るためのものだ。

神に受け入れられるため、ではないのだ。

 

「わたしは、もはや彼らの罪と不法とを思い起こさない」と言われるからです。(17)

 

ここが、わたしたちが悔い改めをもってつねに立ち返る場所だ。

「罪を意識することがなくなる」とは、悔い改める必要がないということではなく、悔い改めをもって完全なる罪の赦しに立ち返ることができる、ということなのだ。

 

だから、自分を神の怒りの下にある者として見るのはやめよう。

神の恵み、神の愛、神の赦しにあずかった「聖なるもの」として、神を見上げよう。

 

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(21-22)

 

 

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