みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

みこころに添った悲しみ

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:10)

 

7章でパウロは、コリントの人たちを二度も称賛した。

 

私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。(4)

 

私はすべてのことにおいて、あなたがたに信頼を寄せることができることを喜んでいます。(16)

 

4節は以前の訳では、「私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって」となっている。

あなたたちを信頼できることは、私の誇りであり、喜びだ、というわけだ。

 

問題の多いコリントの教会を、なぜ信頼できたのか?

パウロは、こう言っている。

 

今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。(9)

 

詳細は不明だが、ある人物が人を傷つけるという事件が起きた。

それに対しパウロは手紙を書き、その結果、教会は悲しんで悔い改め、適切に対処した。

そのことをテトスが知らせてくれたので、パウロは大いに喜んだのだ。

 

冒頭のみことばを見ると、「悲しみ」には二種類あることがわかる。

「神のみこころに添った悲しみ」と、「世の悲しみ」だ。

前者は救いに至り、後者は死をもたらす。

 

「神のみこころに添った悲しみ」は、罪を悲しみ、神の御前に悔い改めて、神に立ち返らせる。

言い方を変えれば、神を悲しませたことを悲しむ、と言えるだろう。

どんなに深く悲しんでも、心は神に向かう。

もちろんそれも、主のあわれみとしか言えない。

 

「世の悲しみ」は、はなから神を除外している。

立ち返るべき場所もなく、絶望と諦めしかない。

 

信頼できる人とは、罪を犯さない人ではなく、罪を認めて悔い改める人だ。

罪の自覚もないままに傲慢な祈りを献げたパリサイ人ではなく、目を上げようともせず「こんな罪人の私をあわれんでください」と胸をたたいた取税人のほうだ。

 

神の悲しみを、わが悲しみと思える者になりたい。

十字架で流された主の血潮に信頼して、悔い改めよう。

 

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(1)

 

主は、いつまでも見放してはおられない。主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。・・・自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。自分たちの心を、両手とともに、天におられる神に向けて上げよう。(哀歌3:31-33・40-41)

 

 

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