みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

惜しみなく施す富

彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。(2コリント8:2)

 

8章は、「献金」についてパウロが述べている箇所だ。

 

この献金のことについて、私の意見を述べましょう。(10)

 

ここで、くり返し出てくる言葉がある。

「熱意」「熱心」という言葉だ。

その「熱意」や「熱心」は、キリストとキリストのからだなる教会への「愛」の現れにほかならない。

 

私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。(4)

 

パウロは、マケドニアの諸教会の熱心さを紹介することで、コリントの教会にも励ましを与えようとしている。

 

私は命令として言っているのではありません。ただ、他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。(8)

 

わたしたちは、ともすれば、信仰の道を孤独に歩んでいるような錯覚に陥る。

しかし、主を愛し、主に従順であろうとしている兄弟姉妹たちは世界中に数えきれないほどいる。

きょうもそれぞれが、それぞれの環境の中で闘いを経験しながら、それでも主を見上げ、主の証し人として歩もうと熱心に祈っている。

 

預言者エリヤは、主に忠実に仕えているのは自分だけだと思い込んだ。

その彼に、主は言われた。

 

「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」(1列王記19:18)

 

さて、献金について、パウロはこう語った。

 

喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられるのです。(12)

 

大切なのは、いま「持っているもの」を「喜んで」献げるかどうかだ。

あの貧しいやもめは、レプタ銅貨二つをひっそりと献げた。

エスさまだけは、それを見ておられた。

 

「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(ルカ21:3-4)

 

世の支配者は、多額の献金をする者を尊ぶ。

しかし、わたしたちの主の見方はまったく違う。

 

きょうも世界中で、極度の貧しさにあっても主に献げている人たちがいる。

わたしたちもまた、心からの熱意と喜びと愛をもって献げよう。

 

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(9)

 

 

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