神に倣う者
ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。(エペソ5:1)
「神に倣う者となれ」と、パウロは書いた。
わたしたちは、倣うべき神をどのような方と捉えているだろうか。
わたしたちの信仰のあり方は、その現れといえる。
また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。(2)
神は愛であり、ご自身を惜しみなく与えるお方だ。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。(25)
わたしたちは、キリストをどのような方と捉えているだろうか。
夫の妻に対するあり方は、その現れだ。
キリストの愛に感謝しながら、妻を自分に仕えるしもべのように考えているなら、その信仰は矛盾していると言わざるを得ない。
キリストが「教会のためにご自分を献げられたように」愛せよ、とある。
同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。(28-29)
「そうは言っても、うちの妻ときたらですね・・・」などと、キリストが言われるだろうか?
もしそうなら、わたしたちはとうの昔に捨てられただろう。
さて、妻のみなさんは、ここで喝采しないでいただきたい。
間違っても、この記事をプリントアウトしてテーブルに置くようなことはしないで欲しい。
なぜなら、こうあるのだから。
妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。(22-23)
もう一度、はじめの聖句をみよう。
ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。(エペソ5:1)
ただ神に倣えというのではなく、「愛されている子どもらしく」と言われている。
神の愛を素直に受けとめてはじめて、「神に倣う者」となることができる。
神の愛の証拠は、十字架上のキリストだ。
この事実の前に、静まろう。
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(31-32)