召しにふさわしく歩みなさい
さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。(エペソ4:1)
3章までキリストの救いの奥義、神の永遠のご計画について語られたあと、4章から日常的な歩みにおける指針が語られる。
聖書の順序はいつもそうで、このエペソ書も例外ではない。
素晴らしい救いが成し遂げられた、祝福はすでにあふれるほどに注がれている、だから元気を出しなさい、それにふさわしく聖く歩みなさい、ということだ。
召しにふさわしく歩むその力は、「召し」の素晴らしさを知るほど強くなる。
したがって大切なことは、信仰によってまず聞き、受けることであって、決して人間の行いや人間発の努力ではない。
パウロは、冒頭の言葉のあとにこう続けた。
謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(2-3)
ここから教会の一致について述べていくのだが、その最初に「謙遜」がきている。
謙遜、柔和、寛容、愛、それなしに平和も一致もない。
ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。(17-19)
「厳かに勧めます」との言葉を、しっかりと受けとめよう。
不品行の根っこには、むなしさ、無知、頑なさ、神のいのちとの断絶がある。
彼らは、あえて神を自分の心から投げ捨て、神を恐れることにおいて「無感覚」になっている。
しかし主を信じる者たちは、主の恵みによって、むなしさからも、無知からも、頑なさからも解放され、神のいのちとの生ける交わりを回復した。
だから、まったく新しく歩むことができる。
そこに信仰によって立ち、召しにふさわしく歩もう。
その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。(22-24)