みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか

それなのに、あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。(ガラテヤ4:15)

 

パウロは、かつてガラテヤの人たちに、熱烈な愛をもって受け入れられたという。

 

そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。(14)

 

しかし、いま、こう言わなければいけなくなった。

 

あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。(15)

 

ガラテヤの人たちはかつて、喜びと愛に満ち、喜んで自らを与える人たちだった。

いまは、違う。

その頃の喜びを、失ってしまった。

 

何が起きたのか?

 

しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。(9-10)

 

彼らは、律法の文字に仕える生き方に「逆戻り」してしまったのだ。

その結果、喜びも、愛に満ちた生き方も、見失ってしまった。

 

この4章では、「奴隷」と「子」、または「奴隷」と「自由」という対比が出てくる。

 

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(6-7)

 

奴隷と子の、どちらが幸福で自由だろうか。

言うまでもなく、子だ。

奴隷は終始「ご主人様」と呼ばなければならないが、子は「アバ、父よ(お父ちゃん)」と呼ぶことができる。

奴隷は何の相続分も持たないが、子はすべての相続権を持っている。

 

人が御父ではなく、律法の文字に目を向け始めると、それは再び「奴隷」になることを意味すると、パウロは言った。

 

私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。(11)

 

わたしたちの「父」は愛そのものであり、いのちであり、祝福であり、あふれるほどに与えてくださるお方だ。

わたしたちは「子」として、受け取り、満ちあふれ、周りに与えていく。

新しい歩みをしよう。

 

こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。(31)

 

 

 

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