喜んで与える人
私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(2コリント9:6-7)
「私が伝えたいことは、こうです」と、真意をずばり告げたのが上の言葉だ。
ある農夫は、収穫期になってもたいして収穫できなかった。
わずかしか蒔かなかったからだ。
別の農夫は、収穫期に豊かに収穫した。
豊かに蒔いたからだ。
当然といえば、当然のことだ。
ただ、ここでは単に“収穫の多寡”を問題にしているのではないと思う。
聖書の注釈を見ると、6節の「豊かに」という言葉は、直訳では「祝福をもって」という意味だそうだ。
直前の5節には、こうある。
そこで私は、兄弟たちに頼んで先にそちらに行ってもらい、あなたがたが以前に約束していた祝福の贈り物を、あらかじめ用意しておいてもらうことが必要だと思いました。惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらうためです。(5)
それは「祝福をもって」贈られたものなのだ。
わたしはここに、この章のテーマでもある「与える」ということの秘訣があるように感じる。
神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(7)
「与える人」ではなく、「喜んで与える人」と言われていることに留意したい。
街角でしぶしぶ募金に応じるときのような惜しみながらの与え方では、「喜んで与える」とはいえない。
相手に対する「祝福をもって」、「喜んで与える」人を神は愛してくださる、すなわち、神もまたその人を喜ばれるということだろう。
なによりもまず、神ご自身がそのようなお方だ。
神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(8)
種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。(10)
イエスさまは、こう言われた。
「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」(マタイ10:8)
自分がどれほど与えられているか、祝福されているかを知るほどに、人は与え祝福する者となるのではないだろうか。
浪費することが神のみこころではないように、ケチケチした生き方も神のみこころではないだろう。
神からどれほどの祝福を与えられているかに目を開いていただき、「喜んで与える人」になりたいものである。
ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(15)