みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

目を覚まして正しい生活を送り

目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。(1コリント15:34)

 

13章が「愛の章」であるなら、15章は「復活の章」といえる。

パウロの復活論として、とても重要な箇所だ。

 

パウロがここで復活について詳細に語った目的は、二つある。

一つは、あらためて福音の要点を、特に復活に関する啓示を伝えること。

もう一つは、それによってコリントの人たちが罪から離れ、「正しい生活」に立ち返ることだ。

 

コリントの教会には、驚いたことに、主の復活を信じない人たちがいた。

 

ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。(12)

 

そこからパウロは、主の復活がいかに確かな事実であるか、また復活がいかに重要な信仰の土台であるかを、言葉を尽くして論じていく。

 

パウロは、コリントの人たちの“不品行”が、復活に対する“不信仰”からきていることを、洞察していた。

 

もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。(32-33)

 

考えてみれば、いまの日本人の多くも、このような価値観を持っているのではないだろうか。

もちろん「罪に溺れて生きてやれ」と考える人は少ない。

しかし、死んだら終わりだ、人生は一度きりだ、だから好きに生きよう、楽しく生きればいいじゃないか、と考える人は多い。

 

その根底には、拭いきれない"虚しさ"が横たわっている。

その虚しさが、人を放縦に走らせる。

 

聖書は、いまの肉のからだの人生は一度きりだが、死んで終わりではないと、はっきり示している。

 

アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。それから終わりが来ます。・・・最後の敵として滅ぼされるのは、死です。(22-24・26)

 

いまの地上の人生は、次に始まるすばらしい人生の準備段階にすぎない。

キリストにある者たちには、この確信と希望がある。

そうと知れば、投げやりな、はかない楽しみに走るのは愚かなことだ。

力強く、主の喜ばれる道を進もうではないか。

 

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(58)

 

 

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