みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

雄々しく、強くありなさい

目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。(1コリント16:13)

 

手紙を終えるにあたり、パウロは思いを込めてこう書いた。

 

「雄々しく」という言葉は、以前の新改訳聖書では「男らしく」となっていた。

他の日本語訳をみても、どちらも使われている。

ちなみに英語では、「be courageous」や「be brave」などとなっている。

 

パウロは11章で、男と女のあり方について創造のみわざを根拠に論じた。

 

男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。(1コリント11:7)

 

男は「神の栄光の現れ」として、御前に出るべきであり、かぶり物をつけて下がるべきではない。

つまり、神から責任をゆだねられた者として、神の御前に堂々と立つべき存在である、ということだ。

 

そこから逃げるべきではないし、下がってはいけない。

そして「be brave」、勇敢であれ。

 

パウロは、次のように書いた。

 

しかし、五旬節まではエペソに滞在します。実り多い働きをもたらす門が私のために広く開かれていますが、反対者も大勢いるからです。(8-9)

 

「反対者も大勢いるから」、あえて滞在するという。

いのちまで狙われる危険の中にありながら主を証しするという、このパウロの姿こそ、雄々しく強い信仰者そのものだ。

 

若きダビデは、巨人ゴリヤテに立ち向かい、こう言った。

 

「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。今日、主はおまえを私の手に渡される。・・・ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(1サムエル17:45-47)

 

いま、自分にとってのゴリヤテとは何だろう。

それを前にして、すくみ、ひるんでいるものとは。

ダビデのように、主によって立ち上がるのか。

それとも、他のイスラエルの民のように、恐れてすくむのか。

 

もう一度、何度でも、堅く信仰に立とう。

 

「あなたと言い争う者を探しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは、全く無いもののようになってしまう。わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。」(イザヤ41:12-13)

 

「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)

 

 

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