神は混乱の神ではなく
神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。(1コリント14:33)
14章は、「異言」について多くの言葉を割いている点で特徴的だ。
「異言」は、「かぶり物」以上に現代の教会でも議論のあるところだ。
私の手元にある聖書には、次のような解説がある。
<異言―多くの人は、ここにおける異言は、恍惚状態で語られる訳の分からないことばと理解しているが、おそらく使二468のように、何らかの外国語であったと思われる。>
わたしも、このとおりだと考える。
パウロは、「預言」と「異言」を対比させながら語っている。
それぞれに属する用語(内容)を、まとめてみよう。
預言/教会、知性、大人、信じている者たちのため、悔い改め
異言/自分、霊、子ども、信じていない者たちのため、つまずき
こうしてみると、パウロはここでも、この手紙でずっと主張してきたこと、すなわち「他者に配慮して行動する」というメッセージを伝えていることに気づく。
異言を語るか否かが、問題なのではない。
そうであるなら、異言を語らない多くのクリスチャンには関係のない話となる。
そうではなく、わたしたちの持っている信仰が、「異言的」か、「預言的」か、が問題だ。
「異言的な信仰」は、ひとりよがりで、他者への配慮に欠け、教会の調和は考えない。
それに対し「預言的な信仰」は、他者に配慮し、教会の調和と成長のために奉仕する。
私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。(5)
しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。(19)
子どもは、思いどおりにならないと癇癪を起こしたり、すねたりする。
多分に自己本位だ。
大人は、周りに配慮し、混乱を避け、自他ともに成長できるよう行動する。
わたしの信仰は、「異言的」になってはいないか。
「預言的」な大人の信仰に成長できるよう、祈りたい。
ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。(40)