ご自分をいけにえとして
しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。(ヘブル9:26)
前章で、モーセの律法によるものは本物の模型であったことにふれたが、9章にははっきりとそう書いてある。
キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。(24)
キリストは本物の大祭司であり、完全な救いを成し遂げられた。
なぜ完全と言えるかといえば、この方が「ご自分をいけにえとして」献げられたからだ。
雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(13-14)
「血」とは「いのち」を意味する。
したがって、「血を流す」ことは「死」と同義だ。
血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(22)
ヤクザの世界では罪滅ぼしに指を落とすが、聖書においては指を落とすどころではない。
「死」が要求される。
そして、それを何の傷もない神の小羊キリストが代わりにお受けくださった。
とうてい理解しがたいが、事実だ。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(27-28)
芥川龍之介の『きりしとほろ上人伝』という作品を思い出す。
天下に類を見ないほどの大男が、「えす・きりしと」様に出会うために、大河の渡しをして人の役に立とうとする。
来る日も来る日も、人々を担いで河を渡るが、三年経っても「えす・きりしと」様に会えない。
ある嵐の夜、河を渡してくださいと頼む子どもが来た。
いぶかりながらも、いつものように担いで河に入ったが、暴風雨に悩まされ、しかも不思議なことにその子がどんどん重くなる。
さすがの大男もあまりの重さに耐えかねて死を覚悟したところ、命からがらなんとか向こう岸にたどり着いた。
重さに驚いたと言う大男に、その子は微笑んで答える。
「さもあらうず。おぬしは今宵と云ふ今宵こそ、世界の苦しみを身に荷うた『えす・きりしと』を負ひないたのぢや。」
イエス・キリストは、あなたの、わたしの、全人類の罪を負い、十字架の上で血を流されたのだ。
また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26:27)