頭に権威のしるしをかぶる
それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。(1コリント11:10)
11章からパウロは、教会の営みにおける"各論"に入っていく。
前半では女性の「かぶり物」について、後半では「主の晩餐」の食事についてふれている。
ここでは、「かぶり物」について見てみたい。
「かぶり物」は、現代のキリスト教会でも、使用するところもあれば、しないところもあり、議論が分かれる。
パウロは、冒頭のように「かぶるべき」としながらも、同時に、命令することは避けている。
あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。(13)
「偶像に献げられた肉」の問題と同様、かぶる人がかぶらない人をさばくべきではないし、逆もまたしかりだ。
それぞれの判断が、尊重されていい。
パウロは、女性のかぶり物を“創造の秩序”に基づいて論じる。
ここに示されている男女観は、現代のジェンダー論からすれば非難の対象となっても仕方ないようなものだ。
すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(3)
さっそく「意義あり!」と、声が飛びそうではないか。
男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。(7-9)
これは言うまでもなく、創世記にある人間創造の記事に基づいている。
世の女性たちは、どう思うだろう?
クリスチャンの女性は、どうだろう?
現代の政治家は、女性を重用することで人気を取ろうとしている(ように見える)。
また、女性の宰相も珍しくなくなってきた。
しかし、それらはあくまでも「政治」の話であり、「この世」の話だ。
問題は、「教会」でいかにあるべきかだ。
すなわち、神の御前で、男と女はどうあるべきなのか、ということだ。
パウロは、「御使いたちのため・・・かぶるべき」と書いた。
神は「秩序」、別の言葉でいえば「調和」を重んじられる。
神が創造された被造物の世界は、驚くほどの調和をもって成り立っている。
これを破壊したのが、悪魔だ。
そのやり方は、最初に女(エバ)を引き出すことだった。
私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。(1テモテ2:12-14)
ただし聖書は、罪の責任を男(アダム)に負わせている。
死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。(1コリント115:21-22)
パウロは、「男は神の栄光の現れであり、頭にかぶり物を着けるべきではない」という。(7)
そこには、責任がともなう。
そして、「女はかぶるべき」という。(10)
そこには、謙遜がともなう。
あとは、各自がどう判断するかだ。
神である主は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。(創世記2:21-22)