キリストのからだ
あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。(1コリント12:27)
“One for All,All for One.”(一人はみんなのために、みんなは一人のために)
この言葉は、ラグビーのフレーズとして有名だ。
昨年、日本で開かれたラグビーワールドカップは大いに盛り上がり、わたしも夢中で見た。
あらためて思ったのは、ラグビーには一人ひとりの役割があり、それが調和したときに大きな力を発揮するということだ。
身体の大きな重量級、足の速い人、司令塔、キッカーなど、いろんな特長の選手が必要だ。
重い選手が速い選手を要らないとは言えないし、キッカーが重量級を邪魔とは言えない。
キリストの教会も同じだ。
パウロは、教会の一人ひとりをキリストのからだの部分だと言った。
目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。(21-22)
目はすごい。
物を正確に映し出し、光に合わせて即座に調節する。
手には、そんなことはできない。
手もすごい。
ときに力強く、ときに細かく、状況に応じてあらゆる仕事をする。
目には、そんなことはできない。
頭はどうだ。
さまざまな事を考え、判断し、計画する。
足はどうだ。
全体重を支え、歩き、走り、飛んで、身体を移動させる。
それぞれがすばらしい働きをし、それぞれが互いを必要とする。
働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。(6-7)
自分には何もないと、落ち込むのはやめよう。
「一人ひとりに与えられている」と、書いてあるのだから。
目立たないかもしれない。
しかし、「弱く見える部分が、かえってなくてはならない」と言われている。
わたしたちは、皆、「天才」だ。
神からそれぞれに賜物を与えられ、かならず役割がある。
そして、キリストのからだの部分である。
嬉しくなるではないか。
他の部分をねたんだり、さげすんだりしないようにしよう。
一人はみんなのために、みんなは一人のために、そしてキリストの勝利を共に喜ぼう。
一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。(26)