みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

ねたみのためのささげ物

「これはねたみのためのささげ物、咎を思い出させる、覚えの分としての穀物のささげ物だからである。」(民数記5:15)

 

この「ねたみのためのささげ物」は、解説によると、聖書中ここだけの記述ということだ。

夫婦間のトラブル、それも妻が不貞を働いたか、もしくはその疑いがある場合の扱いだ。

 

「もし人の妻が道を外して夫の信頼を裏切り、ほかの男が彼女と寝て交わり、そのことが夫の目から隠れていて、彼女が身を汚したことが見つからず、証人もなく、彼女が捕らえられないままであるが、妻が身を汚していて、夫にねたみの心が起こり、妻に対して憤る場合、あるいは妻が身を汚していないのに、夫にねたみの心が起こり、妻に対して憤る場合、夫は妻を祭司のところに連れて行き、彼女のために大麦の粉十分の一エパをささげ物として携えて行きなさい。この上に油を注いでも乳香を加えてもいけない。」(12-15)

 

このあとに、冒頭のことばが続く。

 

ほとんどの日本人は、聖書がこのような件を扱っていることなど知らないのではなかろうか。

聖書の「聖」とは神の「聖」であって、人間についてはいかに罪深い者であるかをこれでもかと書いているのが聖書なのだ。

 

さて、祭司の前に妻が連れて来られたあと、祭司は「聖なる水」に幕屋の土のちりを混ぜ、所定の手続きに従い、これをその妻に飲ませる。

 

「その水を飲ませたとき、もし、その女が夫の信頼を裏切って身を汚していれば、のろいをもたらす水はその女の中に入って苦くなり、その腹はふくれて、そのももは瘦せ衰える。その女はその民の間で、のろいの的となる。」(27)

 

これに対し、無罪であった場合はこうだ。

 

「しかし、もし女が身を汚しておらず、きよければ、罰を免れて、子を宿すようになる。」(28)

 

これを読んで、わたしは、夫の裏切りについて触れていないのは不公平ではないかと思う。

どちらかと言えば、そちらのケースのほうが多いのではないか。

 

また、あらぬ疑いをかけられて、祭司の前に連れて行かれた妻は、その後、夫にどういう感情を持っただろうかと心配になる。

かえって、これがきっかけで夫婦仲に亀裂が生じはしないか。

 

いろいろ言いたいところだが、ことキリストとわたしたちの関係と捉えたらどうだろうか。

新約聖書において、キリストと教会は、夫と花嫁に例えられる。

 

この夫は裏切ることなどあり得ない。

裏切るとしたら、つねに花嫁の側だ。

 

上の規定は、神だけはあらゆる罪を見逃さないことを示している。

この方の前に、わたしたちは申し開きをすることになる。

 

神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。(ヘブル4:13)

 

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