わたしにとって聖なる者でなければならない
「あなたがたは、わたしにとって聖なる者でなければならない。」(出エジプト22:31)
引き続き、多くの規定が与えられる。
上のみことばは、22章の最後にある。
「わたしにとって」というところが新鮮に響いた。
たんなる「聖なる者」というのではなく、「わたしにとって聖なる者」とはどういうことだろう。
他の訳を見てみる。
「あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない」(新改訳第三版)
「あなたがたは、わたしに対して聖なる民とならなければならない」(口語訳)
「あなたたちは、わたしに属する聖なる者とならねばならない」(新共同訳)
少しずつ異なっているが、いずれも、“主との関係”に基づいて語られている。
つまり、人間が勝手に想像する聖さではなく、主に対し、主にとっての、主との関係のなかでの聖さということだ。
ところで、少し前の規定を読むと、主の愛を随所に見ることができる。
「寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない。もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。」(21-23)
「もしも、隣人の上着を質に取ることがあれば、日没までにそれを返さなければならない。それは彼のただ一つの覆い、彼の肌をおおう衣だからである。彼はほかに何を着て寝ることができるだろうか。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いからである。」(26-27)
主は情け深く、あわれみ深く、愛に満ちたお方である。
主の愛と聖さにしっかりと目を向けてはじめて、わたしたちは主にとって「聖なる者」となるのではないだろうか。
従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。(1ペテロ1:14-15)