わたしが聖であるからだ
「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖であるからだ。あなたがたは、地の上を這ういかなる群がるものによっても、自分自身を汚してはならない。」(レビ記11:44)
この11章はおもしろい。
動物のなかで、食べてよいものと食べてはいけないものについて記してある。
以上が、動物と鳥、また水の中にうごめくすべての生き物と、地に群がるすべての生き物についてのおしえであり・・・(46)
反芻するものはいいが、ひづめが分かれていないものはダメとか、ひれと鱗のあるものはいいが、それらがないものはダメとか、いなごやバッタはいいが、それ以外の虫はダメとか、読みながら「へぇ~」と興味をそそられる。
なんとなく、おおよそ現代の食習慣と合致するような気もする。
例えば、ハゲワシやトビ、カラスは食べない。
しかし、豚やうなぎ、タコなどは、日本人は大好きだ。
新約時代にはこれらはすべて無効となり、神が造られたものはすべてきよいとされたから、わたしたちも笑いながら読めるが、当時の人たちは緊張しながら覚えたことだろう。
しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。(1テモテ4:3-4)
さて、さまざまな食物に関する規定のあと、神は冒頭のように語られた。
「あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖であるからだ。」(44)
そのあとにも、こう続く。
「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」(45)
わたしたちは、とかく、「聖なる者とならなければならない」のところだけを受け取ってはいないか。
そして、そうなれない自分に苦しんではいないか。
なぜ、聖なる者とならなければならないのか。
「わたしが聖であるからだ。」
こちらに目を向けるのがカギのような気がする。
自分を磨いて磨いてきよくなろうとしても、失望するばかりだ。
そうではなく、真に「聖なる方」を見上げるのだ。
この方は、「あなたがたの神となるために」、わたしたちを罪とサタンの束縛から引き出してくださった。
わたしたちが聖なる者とならなければならないのは、「わたしたちの神」が「聖」であるからだ。
このシンプルで、すばらしい真理を、信仰の目をもってさらに見ることができるように祈ろう。
従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。(1ペテロ1:14-16)