みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

子を産む女についてのおしえ

「祭司はこれを主の前に献げ、彼女のために宥めを行い、彼女はその出血の汚れからきよくなる。これが、男の子であれ女の子であれ、子を産む女についてのおしえである。」(レビ記12:7)

 

12章は、産後の女性に関する規定である。

 

イスラエルの子らに告げよ。女が身重になり、男の子を産んだとき、その女は七日の間汚れ、月のさわりの不浄の期間と同じように汚れる。八日目には、その子の包皮の肉に割礼を施す。彼女は血のきよめのために、さらに三十三日間こもる。そのきよめの期間が満ちるまでは、いかなる聖なるものにも触れてはならない。また聖所に入ってはならない。」(2-4)

 

女の子を産んだときは、割礼がないことのほかは、上の日数がすべて倍になる。

つまり、「二週間汚れる」とされ、「六十六日間こもる」必要があった。(5)

 

さらに、息子の場合でも、娘の場合でも、子羊及び家鳩のひなか山鳩一羽をささげた。(6)

羊を買う余裕がない家庭は、二羽の山鳩か二羽の家鳩のひなで代用した。(8)

 

産後に1~3か月近くこもるのは、祭儀的な不浄の意味もあったが、静養期間としての意味も大きかったと思われる。

このおかげで、産後の女性はゆっくりとからだを休めることができ、子どもとかかわることができた。

 

パウロは、律法についてこう書いている。

 

モーセの律法には「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。私たちのために言っておられるのではありませんか。そうです。私たちのために書かれているのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。(1コリント9:9-10)

 

律法を読むとき、この視点をつねに頭に置いておかねばならない。

すなわち、律法の根底には神の人間に対する愛があるということだ。

この愛を取り外して字面だけを追い始めると、律法主義の罠に陥る。

 

神の愛の現れとして律法を受け取るとき、そこには自ずと感謝が伴うのではなかろうか。

そのような読み方を、つねにしたいものである。

 

そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。・・・また、主の律法に「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」と言われていることにしたがって、いけにえを献げるためであった。(ルカ2:22・24)

 

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