みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

その足跡に従うようにと

このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。(1ペテロ2:21)

 

ペテロは、試練の中にある兄弟姉妹たちに、次のように語りかけた。

 

異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。(12)

 

立派にふるまうとは、どういうことか?

こう続いている。

 

  • すべての制度に従う
  • すべての人を敬う
  • 主人に従う
  • 不当な苦しみを耐える

 

意地悪な主人にも従い、不当な苦しみを耐えよと聞くと、キリスト者とはなんと弱くみじめな者かと思うかもしれない。

しかし、イエスさまは何と言われたか。

 

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。・・・『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:38-39、43-44)

 

そして、イエスさまはご自身の教えどおりに歩まれた。

 

キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。(22-24)

 

ペテロは、まさにこれを目撃した。

そして、「模範を残された」と伝えているのだ。

 

それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。(24)

 

何の過ちも犯していないにもかかわらず、釘のついた鞭で数え切れないほど打たれ、ボロボロの傷だらけになった体験があるという人は、まずいないだろう。

ましてや罪のない神の子だ。

これ以上不当な扱いはない。

それを耐えられたのは、何のためか?

誰のためか?

 

わたしたちは、「その打ち傷のゆえに、癒やされた」のだ。

 

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。(ヘブル12:2-4)

 

 

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