目には目を、歯には歯を
「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。」(レビ記24:20)
「目には目を、歯には歯を」。
クリスチャンでなくとも知っている言葉であろう。
この有名な言葉が、ここに出てくる。
今回読んで、わたしは驚いた。
大きな読み違いをしていたことに気づいたのだ。
何かというと、この律法は、傷つけられた者ではなく、傷つけた者に向けて言われているということだ。
この言葉は、よく「同態復讐法」とか「同害報復法」であるという説明がされる。
間違ってはいないが、そう受け取ると、ともすれば、「やられた分だけやり返す」というように、被害者の立場で捉えてしまいがちだ。
しかし、よく読んでみよう。
「人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。」(20)
直前の19節にも、こうある。
「人がその同胞に傷を負わせるなら、その人は自分がしたのと同じようにされなければならない。」(19)
21節では、こうだ。
「家畜を打ち殺す者は償いをしなければならず、人間を打ち殺す者は殺されなければならない。」(21)
言及しているのは、すべて、加害者の扱いである。
わたしたちは、往々にして、傷つけられたことばかり握りしめている。
そして、傷つけられたと同じ分だけやり返す権利があるかのように考え、その権利の保証のように「目には目を」と持ち出す。
しかし、いま見てわかるとおり、これは被害者の権利を保証した言葉ではない。
くり返すが、わたしたちは、傷つけられたことは何年にもわたって根に持ち、傷つけたことは三日と経たずに忘れる。
やられたことには「なんてひどいことを」と怒り、やったことには「あれくらいが何だ」と軽んじる。
傷つけたこと、または傷つけたかもしれないこと、そこにフォーカスしなければならない。
みことばの意味は、人を傷つけたなら、同じだけ傷つけられなければならない、ということだ。
傷つけられたら、同じだけ傷つけてよい、という意味ではない。
このような勘違いを、キリストは正された。
「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)
理不尽だろうか。
これが神の掟だ。
ああ、わたしはどれほど人を傷つけてきたことだろう。
もし同じだけやり返されたら、とても耐えられないに違いない。
主の前に、小さくならざるを得ない。
愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」(ローマ12:19)