みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

買戻しの権利

「土地は、買戻しの権利を放棄して売ってはならない。土地はわたしのものである。あなたがたは、わたしのもとに在住している寄留者だからである。あなたがたの所有するどの土地においても、土地を買い戻す権利を認めなければならない。」(レビ記25:23-24)

 

25章には、非常におもしろい規定が出てくる。

「ヨベルの年」といわれるものだ。

 

「あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。」(10)

 

そもそも、イスラエルの民がカナンの地に入ったあとから、七年ごとに土地を休ませる規定が与えられた。(2-4)

そして、七年が七回続いて四十九年となり、その翌年の五十年目が「ヨベルの年」とされた。

それは「解放」の年だ。

 

たとえば、ヨベルの年になると、かつて売った土地は売り主の元に戻された。

 

わたしたちの常識では、売ってしまったら、あとは買った人の所有になる。

ところがここに、冒頭の「買戻しの権利」という言葉が出てくる。

 

土地を売ることと、買戻しの権利までいっしょに売ることとは違うのだ。

ヨベルの年には、土地は買戻しの権利を持つ元の所有者に戻された。

 

さて、聖書には、主イエスはわたしたちを「買い取った」とある。

 

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい。(1コリント6:19-20)

 

「代価」とは、もちろん、主ご自身のいのちだ。

主は、ご自身のいのちを払って、わたしたちを買い取られた、いや、買い戻されたのだ。

 

わたしたちは、もともと主によって造られた「主のもの」だ。

それをサタンがアダムを罪に陥れたことで、サタンの所有物であるかのようにしてしまった。

 

主は、わたしたちの買戻しの権利を放棄されなかった。

それどころか、99匹を残して1匹の迷える羊を探す羊飼いとして、この地上に来られたのだ。

 

「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。」(ヨハネ6:39)

 

わたしの所有者は、わたしですらなく、主イエスだ。

嬉しくなるではないか。

 

このからだは、一時的な衣にすぎず、仮の宿だ。

本来の所有者であるお方が喜ばれるように使おう。

 

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。(1コリント7:23)

 

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