みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

わたしの命令を守り、それらを行うなら

「もし、あなたがたがわたしの掟に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、わたしは時にかなってあなたがたに雨を与える。それにより地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。」(レビ記26:3-4)

 

26章には、二つの道について記されている。

 

一つは、冒頭のみことばにあるように、祝福につながる道だ。

主の掟に従って歩むなら、地は産物を出し、満ち足りるまでパンを食べ、安らかに住む。

そこには平和があり、敵を追い散らし、子孫は増える。

主も、ともにいてくださる。

 

「しかし、もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらすべての命令を行わないなら・・・わたしもあなたがたに次のことを行う。」(14・16)

 

もう一つは、真反対の道だ。

病がはびこり、地の産物は敵のものになり、敵に打ち負かされ、獣に襲われ、家畜は絶え、パンはなくなり、聖所は荒れ果てる。

民は国々に散らされ、町は廃墟となり、平安はどこにもなくなる。

 

悲惨極まりない。

このような悲劇的な状況を、主ご自身が行われるとある。

イスラエルの民は、この悪いほうの道を歩み、そのとおりになってしまった。

 

神の掟を守るかどうかは、イスラエル民族にとって、文字通り「死活問題」だ。

だから、あたかもそれを破っているかのように見えたイエスさまやパウロは、律法を重んじる保守派から攻撃された。

 

しかし、イエスさまは、律法の本質に歩まれたのであって、律法を破れとはひとことも言われなかったのだ。

 

「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5:17-19)

 

イエス・キリストは、律法を廃棄された方ではなく、成就された方である。

 

パウロも、こう書いている。

 

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(ガラテヤ5:14)

 

律法を重んじる保守派の人たちは、あの規定、この戒めと、落ち度なく守ろうとした。

無理もないこととは思う。

 

しかし、イエスさまは、律法の本質をずばりと示し、それこそが守るべき掟であることを教えられたのだ。

 

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

 

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