みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

特別な誓願を立てるとき

イスラエルの子らに告げよ。人が人間の評価額にしたがって主に特別な誓願を立てるときには、その評価額を次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男子なら、その評価額は聖所のシェケルで銀五十シェケル。」(レビ記27:2-3)

 

レビ記も、本章で最後となる。

ここに「誓願」という言葉が出てくる。

 

現代の日本人であるわたしには、あまりピンとこない言葉だ。

たんなる“願掛け”とは違って、記念や感謝の現れとして、主にささげ物をするということらしい。

 

それが人間そのものであれば、献身ということになる。

それをお金に換算し代用したのが、上の箇所だ。

 

銀1シェケルが当時の月給というから、50シェケルだと4年以上の年収分となる。

払えたのだろうか。

 

ともかく、ここでは次のようになっている。

  1. 20~60歳の男子/50シェケル
  2. 同女子/30シェケル
  3. 5~20歳の男子/20シェケル
  4. 同女子/10シェケル
  5. 1か月から5歳の男子/5シェケル
  6. 同女子/3シェケル
  7. 60歳以上の男子/15シェケル
  8. 同女子/10シェケル

働き世代が最も多い。

0~5歳、5~20歳、20~60歳、60歳以上、という区分が現代の感覚と変わらないのがおもしろい。

このほか、家畜や家、畑などといったささげ物についても記されている。

 

申命記には、次のような箇所がある。

 

「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。なぜなら、あなたの神、主は必ずあなたからそれを要求し、こうしてあなたが罪責を負うことになるからである。誓願をやめる場合、あなたに罪責は生じない。あなたの唇から出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行わなければならない。」(申命記23:21-23)

 

主に誓ったことを行わなければ罪責となる、ということだ。

ところが、イエスさまは、このように言われた。

 

「また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本白くも黒くもできないのですから。あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」(マタイ5:33-37)

 

これを聞いた民衆の多くは、ほっとしたのではないか。

「ああ、律法の先生たちから、もっと頑張れ、決心が足りない、祈りが足りない、学びが足りないと散々言われてきたが、このお方はまったく違うことをおっしゃる」。

 

エスさまは、人間のちっぽけな決心や誓いが何のあてにもならないことを、よくご存じだ。

神はそのようなことを期待してはおられない、とおっしゃっているのだ。

 

勝手に誓って、勝手に破って、勝手に落ち込む。

これを「ガンバルマン三原則」という。

 

少し話がそれたが、肩の力を抜こうではないか。

あなたがいますぐ、髪の毛を白くしたり黒くしたりできるなら別だが。

 

これで『レビ記』が終わる。

今回も、いままで読んだどのときよりも、感謝と喜びをもって読むことができた。

途中にも書いたが、『レビ記』を学ぶ祝福は『ヘブル人への手紙』の理解が深まることにあり、それはすなわちキリストの救いの完全性を知ることだ。

 

この方だけが、わたしたちの良心を完全にして、神のみもとに導くことができる、まことの大祭司である。

まことに、この方を通してでしか、だれも父のみもとに行くことはできない。

 

エスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。(ヘブル7:24-25)

 

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