みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

主が来られる時まで耐え忍びなさい

ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。(ヤコブ5:7-8)

 

5章では、対照的な二種類の人について語られている。

 

ひとつは「金持ち」だ。

 

金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐り、あなたがたの衣は虫に食われ、あなたがたの金銀はさびています。そのさびがあなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財を蓄えたのです。(1-3)

 

エスさまは「金持ちが天の御国に入るのは難しいことです」(マタイ19:23)と言われたが、ここでそれがさらに強調されたかたちだ。

 

見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。(4)

 

この手紙から約1800年後にマルクスが『資本論』を著すわけだが、この時点ですでに資本家と労働者の理不尽な関係があったのだ。

 

あなたがたは地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、屠られる日のために自分の心を太らせました。(5)

 

いまも「金持ちたち」は毎晩のようにぜいたくな食事に舌鼓を打ち、それを当然の権利のように考え、「神などいない」と享楽にふけっている。

と批判したくなるものの、貧困国から見れば、わたしたち日本人はみな、「ぜいたくに暮らし、快楽にふけり」と言われる側かもしれない、とも思う。

 

 

もうひとつは「農夫」だ。(冒頭参照)

農夫ほど切実な思いで空を見上げる人たちはいない。

彼らは「耐え忍んで待つ」人たちだ。

 

わたしの母方の田舎は、農家だ。

山間の静かな村で祖父や伯父は、終生、田畑を耕して生きた。

自然のリズムとまったく調和して、淡々と鍬(くわ)を振るうその姿は、クリスチャンのわたしが言うのもヘンだが、拝みたくなるほど尊く見えた。

 

彼らは、貴重な実りを期待し、信じ、耐え忍んで待った。

しかし何もしないわけではなく、土を起こし、種を蒔き、手入れを怠らず、常に心を配った。

おかしい、まだ実らない、チクショー、などと自暴自棄になって掘り返すようなことはしなかった。

耐え忍んで待ったのだ。

 

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれにみ満ちておられます。(11)

 

わたしたちは「金持ち」になれば幸せだろうと考えやすいが、聖書は「耐え忍んだ人たち」が幸せだと言っている。

「主が来られる時が近づいている」(8)ことを信じて、忍耐を学ぼう。

 

あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。(ヤコブ1:3-4)

 

 

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