みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

世を愛することは神に敵対すること

節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。(ヤコブ4:4)

 

ここでいう「世」とは、「この世の神」(2コリント4:4)である悪魔が支配する世界のことだ。

わたしたちは、世の人々を愛しても、悪魔の支配する「世」を愛してはならないということだろう。

「世を愛することは神に敵対すること」であり、「自分を神の敵」とすることだと言われている。

それはつまり、完全に“悪魔の側”に立つことを意味する。

 

あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。(1ヨハネ2:15)

 

悪魔からすれば、わたしたちが兎にも角にも神を愛さなくなればそれでいいのだ。

そうなれば、わたしたちがたちまち霊的な力を失い、主の栄光を現すことができなくなることをよく知っている。

そのためには、主イエスを誘惑したあの巧みさをもって、あらゆる手段を講じてくる。

 

だから、次のように言われている。

 

ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。(7-8)

 

ヤコブはここで、特に金儲けに心奪われる人たちに警告する。

 

「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。(13-15)

 

商売やこのことあのこと、それ自体が悪いのではない。

そこに主がおられるかどうか、が問題だ。

ひとつ目の言葉を見よう。

どこにも主はおられない。

しかし二つ目には、「主のみこころであれば」と真っ先に語られている。

 

わたしたちの生活の一つ一つが、これによって吟味されると良いと思う。

もちろん、「主のみこころであれば」と、ただ機械的に付けるのでは意味がない。

心からの言葉として、真っ先に出てくるようでありたい。

 

ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。(コロサイ3:17)

 

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(10)

 

 

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