舌を制する
しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。(ヤコブ3:8)
3章では、「舌」「口」「ことば」が主要なテーマとなっている。
これらに関する戒めは、旧約、新約を問わず、聖書には数え切れないほどある。
それほど人間にとって大きな問題であり、処するのが難しい事柄と言えるだろう。
私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。(2)
“舌禍”という言葉がある。
昨今の政治家たちを見れば、それがいかにたやすく起きるかがわかろうというものだ。
わたしが、「『先生、先生』と言われ続けると、人は馬鹿になるんだな」と言うと、「言ってることが、おじさんだよ」と、さっそく妻にたしなめられた。
わたしも、舌を制御できない一人だ。
私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。(9-10)
教会で讃美歌を高らかに歌い、その帰り道であの人がどうこの人がどうとおしゃべりしてはいないか。
「同じ口から賛美と呪いが・・・」、とんでもないことだが、これが事実だ。
実際に呪いの言葉を口にしなくても、心の中ではどうだろう。
自分の内に恐ろしい黒いものがあるのを、認めざるをえない。
イエスさまは、次のようにおっしゃっている。
「まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」(マタイ12:34-37)
「口にするあらゆる無益なことば」についてさばかれるということは、わたしたちのすべての言葉を主は聞いておられるということだ。
ダビデは、切なる思いで祈った。
だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。あなたのしもべを、傲慢から守ってください。それらがわたしを支配しませんように。そのとき私は、大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。主よ、わが岩、わが贖い主よ。(詩篇19:12-14)
主よ。私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください。(詩篇141:3)
また、次のようにも告白している。
私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。(詩篇16:8)
いま発しようとする言葉は、主を前にして言えるものかどうか。
主の御前にあるときにのみ、わたしたちは守られるのではなないかと思う。
ダビデと心合わせて、切に祈ろう。
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。(エペソ4:29-30)
俗悪な無駄話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔になり、その人たちの話は悪性の腫れもののように広がります。彼らの中に、ヒメナイとピレトがいます。(2テモテ2:16)