みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

行いのないあなたの信仰

 しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。(ヤコブ2:18)

 

このみことばから、はっきり分かることがある。

「信仰の人」はかならず「行いの人」である、ということだ。

 

Aさんは「信仰の人」でBさんは「行いの人」、ということはないのだ。

ほんとうに「信仰の人」であるなら、その信仰はかならず行いに現れるので「行いの人」でもある。

 

では、その「行い」とは何か?

まじめに教会に通うことか。

聖書を欠かさず読むことか。

大きな集会を企画したり、伝道に励むことか。

 

そうではない。

 

もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。(8)

 

文脈から見て、「隣人を愛する」ことが本物の信仰に伴う「行い」である。

だとするならば、わたしたちの信仰が本物かどうかを知っているのは、"隣人"だということになる。

そして教会での評判よりも、隣人の判断のほうが、たいてい正しい。

家庭で、職場で、地域で、さてどうだろうか。

 

もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。(1テモテ5:8)

 

エスさまの話された、「良きサマリヤ人のたとえ」(ルカ10:30-35)を思い出す。

強盗に襲われた人を、祭司もレビ人も見て見ぬふりをして通り過ぎたが、サマリヤ人は手厚く介抱したという話だ。

ここで、自分は祭司やレビ人のような者ではないと思うかもしれない。

しかし、その人に近寄って、「大丈夫ですか。神がおられるから心配いりませんよ。祈っていますよ」といかにも信仰的なことを言うだけで、通り過ぎてしまうこともあり得るのだ。

 

兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。(15-17)

 

きょうのみことばは非常に厳しいものであるが、自分の信仰を省みる鏡として、主からしっかりと受け取りたいと思う。

 

しかし、主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。神の国は、ことばではなく力にあるのです。(1コリント4:19-20)

 

 

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