みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

もしも不義を、私が心のうちに見出すなら

もしも不義を、私が心のうちに見出すなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに神は聞き入れ、私の祈りの声に耳を傾けてくださった。(詩篇66:18-19)

 

わたしが信仰の師として仰いだ方が、かつて聖書の学びのなかで次の箇所を引用された。

 

「主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する。」(1ペテロ3:12)

 

正直に言うと、このみことばを聞いて、わたしは落胆した。

なぜなら、(ああ、自分の祈りが聞かれないのは、主への不従順のせいだ)と感じたからだ。

 

冒頭のみことばも、同じように捉えていた。

 

もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。(新改訳第三版)

 

わたしは心に不義をいだいているのだから祈りが聞かれないのは当然だ、と妙な確信を持っていたのだ。

 

しかし、先の第一ペテロのみことばについて、師はこう語られた。

――ありがたい

 

主は正しい者たちの祈りを聞いてくださる、ありがたい、と。

そのような受け取り方もあるのかと、わたしは驚いた。

 

そうだ。

詩篇のみことばも、第一ペテロのみことばも、祈りが聞かれない確信ではなく、祈りが聞かれる確信の根拠ともなり得るのだ。

 

そもそも、心に不義をいだきながら、主が祈りに答えてくださったらどうなるだろうか。

間違いなく、主を侮るようになるだろう。

 

また、心に不義をいだく者の祈りに答えることは、神にふさわしいだろうか。

もちろん、そのような神は神とはいえない。

まことの神は、極みまできよいお方なのだから。

 

ダビデは、次のように謳った。

 

主は、私の義にしたがって顧みてくださいました。御目の前の、この手のきよさにしたがって。(詩篇18:24)

 

祈りが聞かれない確信ではなく、祈りが聞かれる確信をもって生きよう。

そのために、注意深く、不義から離れよう。

 

ほむべきかな、神。神は私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。(20)

 

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。(1ヨハネ5:14-15)

 

 

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