夕暮れには涙が宿っても
まことに、御怒りは束の間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇30:5)
5節後半の「夕暮れには―」は、詩篇の中でも人気のあることばだ。
わたしも好きなみことばの一つだが、これはただ単に、“いまはつらくても将来かならず祝福がある”という意味だけではない、と今回気づかされた。
そのことについて、書いておきたい。
ダビデは何らかの病にかかり、その後いやされた。
わが神、主よ、私が叫び求めると、あなたは私を癒やしてくださいました。主よ、あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。(2-3)
ポイントは6・7節にある。
私は平安のうちに言った。「私は決して揺るがされない」と。主よ、あなたはご恩寵のうちに、私を私の山に堅く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠されると、私はおじ惑いました。(6-7)
以前の新改訳第三版では、6節は次のようになっていた。
私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」(6)
つまりダビデは、繁栄したときに、それが主の「ご恩寵」であったことを忘れて傲慢になったのだ。
そのため主は「御顔を隠され」、私はおじ惑った、と告白している。
リビングバイブルでは、さらにわかりやすくこう訳している。
順境の日に、私は言いました。「いつまでも今のままだ。だれも私のじゃまはできない。主が恵んでくださって、私をびくともしない山のようにしてくださった。」ところが、神は顔をそむけて、祝福の川をからしたのです。たちまち私は意気消沈し、恐怖におびえました。(6-7)
8節で、ダビデは悔い改めの祈りをささげる。
主よ、あなたを私は呼び求めます。私の主にあわれみを乞います。(8)
そして11・12節で、新たな気持ちで主を賛美する。
あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解き、喜びをまとわせてくださいました。私のたましいが、あなたをほめ歌い、押し黙ることがないために。私の神、主よ、私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(11-12)
整理すると、こうなる。
ダビデは、栄えたときに主の恩寵を忘れて傲慢になった。
その結果、主が御顔を隠されたので彼はおじ惑い、主の前に悔い改めた。
主の祝福を確信した彼は、新しく賛美の歌を歌った。
夕暮れの涙が朝明けの喜びに、嘆きが踊りに、粗布が喜びに変わる。
そこには“悔い改め”がある、ということだ。
たんにつらいことのあとに嬉しいことが来る、というだけではないのだ。
まことの神を仰ぐ者にとっては、真の喜びはいつも真の悔い改めを伴っている。
そのことを、この詩篇は教えているのではないだろうか。
神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:10)