みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

主は誠実な者を保たれる

主を愛せよ。すべて主にある敬虔な者たち。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には、厳しく報いをされる。(詩篇31:23)

 

31篇は、苦難の中にあっても主に信頼しようとするダビデの証しだ。

 

主よ、私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。(1)

 

ダビデは、「あなたに身を避けています」と言った。

彼は、自分の資産や、戦力や、知恵などに頼ろうとはしなかった。

というよりも、あとの節でわかるように、彼は何もかも失い、もはや主にのみ頼らざるを得ない状況にあった。

 

あなたこそ私の巌、私の砦。あなたの御名のゆえに、私を導き、私を伴ってください。(3)

 

わたしたちは、何に身を避け、何を頼ろうとしているだろうか。

 

私の霊をあなたの御手にゆだねます。(5)

 

これはイエスさまが、十字架の上で叫ばれた言葉そのものだ。

 

エスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(ルカ23:46)

 

「私の霊をゆだねる」とは、全身全霊、自分の全存在をゆだねる、ということだ。

そう簡単にできることではない。

わたしなどは、「おゆだねします」と祈りながら、同時に腹を立てたり、思い煩ったりしている。

ほんとうの意味で「ゆだねる」ことができるのは、最後の息を引き取るときなのかもしれない。

 

敵対するすべての者から、私はそしられました。わけても、私の隣人から。知り合いには恐れられ、外で私を見る者は、私を避けて離れ去ります。(11)

 

もっとも近しい人からのそしりは、大変な苦しみをもたらす。

遠い人が言うことならば、何ということはない。

近い人が言うから、腹も立つし、言い返したくもなるのだ。

 

ダビデは隣人や知人からそしられたわけだが、これはヨブもそうであった。

潔白なヨブを次々と不幸が襲ったとき、彼の妻は「神を呪って死になさい」と言い、友人たちは「お前の罪のせいだ」と責め立てた。

 

さらにイエスさまも、同様な目にあった。

直弟子ユダに裏切られ、他の弟子たちも逃げ去った。

 

しかし、主よ、私はあなたに信頼します。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」(14)

 

ダビデは、弁解も攻撃もせず、主に信頼し続けている。

真の信仰がなければ、できないことだ。

 

あなたは、彼らを人のそしりから、御顔の前にひそかにかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。(20)

 

「彼ら」とは、「あなたを恐れる者」「あなたに身を避ける者」(19)のことだ。

いま、「舌の争い」に巻き込まれてはいないだろうか。

実際に言い争いをしていなくても、心の中でののしることはよくあることだ。

主の隠れ場に隠していただこう。

 

キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(1ペテロ2:22-23)

 

 

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