みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

あなたに身を避ける者がみな喜び

どうか、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちが、あなたを誇りますように。(詩篇5:11)

 

ダビデという人の特徴は、とても素直なことだ。

自分の弱さも、汚さも、主の前に取りつくろうことをしない。

 

私のことばに耳を傾けてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。私の叫ぶ声を耳に留めてください。私の王、私の神、私はあなたに祈っています。(1-2)

 

うめくような苦しさ、叫ばざるをえない衝動、ダビデはそれを「聖徒らしからぬこと」と抑え込むのではなく、むしろ主に「聞いてください」とさらけ出した。

その上で彼は、義なる神に堅く信頼しようとした。

 

あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。(4)

 

なぜ、悪の誘惑に対して弱いのか?

義なる神を知らないから、とは言えまいか。

ダビデは、主と一つになることで、主が何を喜ばれ、何を憎まれるかを、よく知っていた。

 

誇り高ぶる者たちは、御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行う者をすべて憎まれます。あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。主は人の血を流す者や、欺くものを忌み嫌われます。(5-6)

 

神が喜ばれることを喜びとし、神が憎まれることを憎む。

ダビデは、この詩篇でこのことを表してくれている。

 

神が憎まれることの先には、悪魔が存在する。

 

彼らの口には真実がなく、心にあるのは破壊です。彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌でへつらうのです。(9)

 

これに対しダビデは、主を慕い求める者たちのために祈る。

それが冒頭の11節だ。

 

あなたに身を避ける者がみな喜び、(11)

 

「避ける」とは逃げ込むことだ。

強者ではなく、弱者の態度だ。

しかし、これがほんとうの信仰なのだろうと思う。

助けられた小さき者たちは、自らを誇ることはしない。

 

あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちが、あなたを誇りますように。(11)

 

さらにすばらしい約束が続く。

 

主よ。まことにあなたは、正しいものを祝福し、大盾のように、いつくしみでおおってくださいます。(12)

 

大盾は攻撃から守ってくれるものだ。

自らを過信せず、いつでも、義なる神のいつくしみの中に逃げ込もう。

 

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。・・・」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(マルコ10:14・16)

 

 

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