主を呼び求める
私は声をあげて主を呼び求める。すると、主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩篇3:4)
表題に、こうある。
ダビデの賛歌。ダビデがその子アブサロムから逃れたときに。(表題)
ダビデ王は、愛するわが子からいのちを狙われ、追われる身となった。
人々は、嘲笑しただろう。
「あのダビデ王が、惨めなことよ。神は彼を見放されたのだ。傲慢になった結果に違いない」
主よ。なんと私の敵が多くなり、私に向かい立つものが多くいることでしょう。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。(1-2)
そんな中でも、ダビデの主に対する信頼は揺るがなかった。
しかし、主よ。あなたこそ私の周りを囲む盾、私の栄光、私の頭を上げる方。(3)
孤独の極みのような状況で、ダビデはますます主に依り頼んだのだ。
そして、冒頭の4節である。
これこそが、ダビデの確信であった。
“私は主を呼び求める、すると主は答えてくださる”
この確信をおまえは持っているかと、問われる気がする。
もちろん、いろいろなことを祈る。
しかし、なんとなく、漠然と祈ってはいないか。
「主が答えてくださる」という、強い確信をもって祈っているか。
ダビデのこの確信は、彼の傲慢さではなく、むしろ主への愛と信頼の現れだ。
それほどに彼は、日々主を呼び求め、主と親しく交わりを持った。
主もまた、そんなダビデをことのほか愛された。
私は身を横たえて眠り、また目を覚ます。主が私を支えてくださるから。私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも。(5-6)
イエスさまも、大嵐の舟でぐっすりと眠られた。
そして、恐れる弟子たちに言われた。
「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか」(マルコ4:40)
主よ。立ち上がってください。私の神よ、お救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪しき者の歯を砕いてくださいます。(7)
ダビデは、自分が敵を砕くのではなく、主が砕いてくださると信じた。
この信仰に倣おう。
わたしの周りには、日々、さまざまな敵がくる。
不信仰、不従順、ののしり、妬み、姦淫、自己憐憫、臆病、疑り、貪欲、高ぶり、自己主張・・・。
信仰に立って宣言しよう。
「主はすべての敵の頬を打ち、悪しき者の歯を砕いてくださいます」と。
主に心注ぎだしたダビデは、最後に民の祝福を祈る。
実に感動的な詩篇だ。
救いは主にあります。あなたの民に、あなたの祝福がありますように。(8)