栄光と力を主に帰せよ
力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。(詩篇29:1)
29篇の冒頭では、「主に帰せよ」という言葉がくり返される。
「帰す」とは、本来の所有者に返すことにほかならない。
「栄光と力」は主のものだから、「主に帰せよ」ということだ。
『ローマ人への手紙』にはこうある。
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)
すべてが神から発し、神によって成り、神に至る。
神がほんとうにおられるならば、当然のことだ。
にもかかわらず、自らを誇り、神の栄光をかすめ取るのが、わたしたち人間だ。
「主に帰す」とは、ひれ伏すことでもある。
御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いをして主にひれ伏せ。(2)
黙示録の描写を思い出す。
二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。(黙示録4:10)
3節から、主の「栄光と力」の象徴として「雷鳴」や「大水」が描かれる。
主の声は水の上にあり、栄光の神は雷鳴をとどろかせる。主は大水の上におられる。主の声は力強く、主の声は威厳がある。(3-4)
ここで思い出すのは、嵐の中のイエスさまだ。
イエスは起き上がって風を𠮟りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。(マルコ4:39)
主は、すべての上に絶対的な権威と力をもっておられる。
これがわたしたちの主なのだ。
それをほんとうに知ったなら、礼拝せざるを得ないだろう。
主の宮では、すべてのものが「栄光」と言う。主は大洪水の前から、御座に着いておられる。主は、とこしえに、王座に着いておられる。(9-10)
この詩篇の最後は、すばらしい啓示で締めくくられる。
主は、ご自分の民に力をお与えになる。主は、ご自分の民を、平安をもって祝福される。(11)
21篇でもみたが、主はその偉大な御力をもって民を祝福してくださる。
万物を従わせる御力だ。
その御力で「平安をもって祝福」してくださる。
栄光と力を主に帰し、主を賛美しようではないか。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)