みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

聖なる、聖なる、聖なる

この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」(黙示録4:8)

 

7つの教会への言葉に続いて、ヨハネはまた声を聞いた。

 

その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。」(1)

 

似たような経験を、パウロもしている。

 

私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。(2コリント2-4)

 

パウロは、わざわざ他人事のようにした上で、どのような状態だったのかは知らない、神がご存じである、とくり返している。

自らに栄光を帰さぬよう注意深く語りながら、同時に、興味本位で「どうだったのか、何だったのか」と聞いてくる者たちの機先を制している。

 

この態度が、『黙示録』を読むときにも重要だ。

ヨハネに対する啓示の一つひとつを主から受け取りながら、けっして興味本位に詮索するような態度になってはいけない。

ヨハネが見た「御座」や「御座についている方」をはじめとする光景がそれぞれ何を意味するのかについては、多くの人が書いてもいる。

 

心に留めたいのは、天における礼拝のようすだ。

六つの翼があり、その周りと内側が目で満ちている四つの生き物が、夜昼問わず告白していた。

 

「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方」(8)

 

これだけでも圧倒される思いだ。

 

また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(9-11)

 

人間が「神は死んだ」と言ったところで、万物の創造主が消え去るわけではない。

ここに、わたしたちの存在の理由が、はっきりと示されている。

キリスト教とか何教とか、そんなちっぽけな話ではない。

万物はこの方によって、この方のみこころのゆえに創造されたのだ。

したがって、この方が万物から礼拝されるべきであるのは当然だ。

 

この方の偉大な、聖なる姿を前にしたら、わたしたち被造物はためらうことなく冠を投げ出すだろう。

自分を喜ばせるための、ちりにもならない何かにしがみつくようなことはしないだろう。

このような礼拝をささげることこそ、被造物として最高の幸せにちがいない。

 

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。(ユダ24-25)

 

 

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