みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

冷たいか熱いかであってほしい

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」(黙示録3:15-16)

 

3章では、7つの教会のうちの3つに向けて主の言葉が語られる。

7つ目のラオディキア教会に対する言葉を見てみたい。

 

これら7つの教会は、初代教会から現代の教会に至るまでの時代区分を表すともいわれる。

つまり、一番最後であるラオディキアは、現代の教会の姿ということになる。

この教会の特徴は、「生ぬるさ」だ。

 

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。」(17)

 

たしかに、この百年、いや50年あまりで、人々の生活は驚くほど豊かになり、便利になった。

いろいろな問題はあるにせよ、だれも50年前や百年前の暮らしに戻りたいとは思わないだろう。

しかし主は、「実はみじめで、哀れで、貧しくて・・・」と見ておられる。

 

問題は、教会、すなわち信者の群れが、「熱くも冷たくもない」状態になっていることだ。

日本が“平和ぼけ”していると言われて久しいが、教会にも同じことが言えるかもしれない。

聖書は、平穏な生活をするよう語っている。

しかし、生ぬるくなれとは言っていない。

 

「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」(19)

 

このみことばは、リビングバイブルの訳がわかりやすい。

 

「もし神に対して熱い心を持たなければ、わたしの罰を受けることになります」(リビングバイブル)

 

「熱くも冷たくもない」者が、神に対してもう一度“熱い心”を持つことが、「熱心になって悔い改める」ことだ。

 

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(20)

 

くり返すが、これは教会に対する言葉だ。

主が教会の戸の外におられるとは、なんということだろうか。

ところが、これは現実にあり得ることだ。

主は飾り物ではない。

主を文字どおり「主」として、熱い心で見上げよう。

 

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」(へブル4:7)

 

 

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