すぐに起こるべきこと
イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。(ヨハネの黙示録1:1)
昨夏から始めた新約聖書一日一章の旅も、いよいよ最後の書物、『ヨハネの黙示録』までやって来た。
あーついに来てしまったか、というのが正直なところだ。
なんせ難解な黙示録だ。
いい加減なことは書けないし、かと言って、省略するのもどうかと思うし。
マルクスの『資本論』を「寝っ転がって読む本」と言った思想家がいたが、そこまでではないにせよ、『黙示録』もあまり肩肘張らずに読んでいきたい。
わたしは牧師でもなければ神学生でもなく、いわばいち信徒に過ぎない。
その自分が、これまでと同じように、いま主から教えられることを書き残すというスタンスで取り組んでみようと思う。
『黙示録』は、これから起ころうとするできごと、神の永遠のご計画を示す書だ。
しかし、たんに将来を啓示するための書物ではない。
厳しい迫害に遭っていた各教会に、神の正しいさばきと永遠の御国を示し、主を待ち望んで信仰を守り抜くよう励ますためのものだ。
ヨハネ自身、迫害下にあった。
私ヨハネは、あなたがたの兄弟で、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている者であり、神のことばとイエスの証しのゆえに、パトモスという島にいた。(9)
おもしろいわけがない。
ヨナのようにふてくされても不思議はない。
しかし、彼がそんな目にあったのは、『黙示録』を書くためであった。
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)
孤独な島で、ヨハネは主の声を聞いた。
私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたが見たことを巻物に記して、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアに送りなさい。」私は、自分に語りかける声を見ようとして振り向いた。(10-12)
振り向いた彼の目に映ったのは、「七つの金の燭台」(12)と、その真ん中におられた「人の子のような方」(13)、すなわちキリストの姿だった。
わたしは、次のように教わったことがある。
『黙示録』を読むときに大事なことは、興味本位で将来のことを知ろうとするのではなく、主イエスがどのような方なのかをよりよく知ろうとすることである、と。
この視点は、つねに忘れないようにしたい。
ヨハネが見たイエス・キリストの姿は、想像を絶するものだった。
- 足まで垂れた衣、胸には金の帯(13)
- 羊毛のように、雪のように白い頭と髪(14)
- 燃える炎のような目(14)
- 光り輝く真鍮のような足(15)
- 大水のとどろきのような声(15)
- 右手に七つの星(16)
- 口から鋭い両刃の剣(16)
- 照り輝く太陽のような顔(16)
若き日にともに過ごしたあのイエスさまとは、まるで違う姿だった。
この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れこんだ。(17)
当然だろう。
だれでも、恐怖のあまり気を失うに違いない。
しかし、そんな彼に主はどうされたか?
すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れることはない」(17)
主は、罪人であるわたしたちにも右手を置いてくださる。
そして、「恐れることはない」と言われる。
「わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。」(18)
誰のために死なれ、またよみがえられたのか。
わたしたち一人ひとりのためだ。
この方が、ヨハネを選び、告げられた。
「それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後起ころうとしていることを書き記せ。」(19)
主が何を語られるのか、祈りつつ読んでいこう。
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。(3)