あなたの御力を王は喜びます
主よ。あなたの御力を王は喜びます。 あなたの御救いを、どんなに楽しむことでしょう。(詩篇21:1)
21篇は、20篇の続きのような詩だ。
20篇は、世の力を求めず、主の御名を呼び求めるという信仰告白であった。
21篇では、「主の御力」に焦点が向けられる。
ダビデは「あなたの御力を王は喜びます」と歌ったが、「王」を「私」に替えてもいいのではないか。
「主よ。あなたの御力を私は喜びます」と。
ありがたいことだ。
わたしたちは、自分の力を喜ぶ必要はない。
自分の力はなんと頼りなく、移ろいやすいことか。
とても喜べるものではない。
しかしわたしたちは、「主の御力」を喜ぶことができる。
これが、わたしたちの力となる。
あなたは、幸いに至る祝福をもって彼を迎え、頭に純金の冠を置かれます。(3)
あなたは、とこしえに彼に祝福を与え、御前で喜び楽しませてくださいます。(6)
主の御力は、祝福の力だ。
主は、暴君のように権力をふるうのではなく、その驚くべき御力を祝福のために使われる。
王は、主に信頼しているので、いと高き方の恵みにあって揺るぎません。(7)
わたしたちを支えるのは、自分の力でも、世のさまざまな力でもない。
主の恵みだ。
「恵みにあって揺るがない」、すばらしい言葉だ。
あなたの御手は、すべての敵を見つけ出し、あなたの右の手は、あなたを憎むものを見つけ出します。(8)
8~12節では、祝福から一転して、神に敵対する者に対する「御怒り」が描かれる。
あなたの現れのとき、あなたは彼らを燃える炉のようにされます。主は御怒りによって彼らを呑み尽くし、火は彼らを食い尽くします。(9)
黙示録によれば、最後のさばきにおいて、主の敵はすべて火の池に投げ込まれる。
この箇所は、その預言のようにも見える。
主の祝福を受ける者として生きるか、主の御怒りを受ける者として生きるか。
人間にとって、もっとも重大な問いかけだ。
主よ。あなたの御力のゆえに、あなたがあがめられますように。大いなる御力を、私たちは歌い、ほめ歌います。(13)