私はあなたを切に求めます
神よ、あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。(詩篇63:1)
63篇は、そのまま日々の自分の祈りにしたい。
一昨日の記事で、あのことこのことではなく神ご自身を求める祈りをしたいと書いたが、この詩がまさにそうだ。
「あなたは私の神」
キリスト者は、心からの確信をもってこう言える。
わたしたちが祈りをささげる神は、偶像でも空想でもなく、生ける本物の神だ。
「私はあなたを切に求めます」
ダビデの信仰は、これに尽きると言っていい。
この態度こそ、彼が主に喜ばれた秘訣だ。
水のない、衰え果てた渇いた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたをあえぎ求めます。(1)
彼は居心地の良い部屋の、ご馳走の前で感謝したのではなかった。
表題を見ると、「ユダの荒野にいた」とある。
そこは、「水のない、衰え果てた渇いた地」だ。
彼は、喉の渇きを、神への渇きにたとえた。
「たましい」も「身」もあえぎ求めるとは、まるで恋愛感情のようではないか。
それほどダビデは、主を恋い慕い、いつも想っていたのだ。
床の上で、あなたを思い起こすとき、夜もすがら、あなたのことを思い巡らすときに。(6)
寝ても覚めても、彼の心は主を求めた。
地上生涯におけるイエスさまもそうだったろう。
「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)
私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。(2)
荒野であろうとどこだろうと、主を仰ぎ見る場所は「聖所」だ。
すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、御存じなかったのですか。」(ルカ2:49)
あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私の唇は、あなたを賛美します。それゆえ私は、生きるかぎりあなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。(3-4)
この地上のいのちは、何のためにあるのか。
その答えが、このみことばにある。
私の唇を、賛美のために使おう。
生きるかぎり、主をほめたたえよう。
脂肪と髄をふるまわれたかのように、私のたましいは満ち足りています。喜びにあふれた唇で、私の口はあなたを賛美します。(5)