みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

人の内なる思いと心

彼らは不正を企み、「企んだ策略がうまくいった」と言っています。人の内なる思いと心とは、底が知れません。(詩篇64:6)

 

ダビデは、「悪を行う者ども」「不法を行う者ども」(2)について描写した。

 

彼らは、その舌を剣のように研ぎ澄まし、苦いことばの矢を放っています。全き人に向けて、彼らは隠れた所から射掛け、不意に矢を射て、何も恐れません。彼らは悪事に凝っています。示し合わせて、ひそかに罠をかけ、「だれが見破ることができよう」と言っています。(3-5)

 

そして、「人の内なる思いと心とは、底が知れません」(6)と言った。

 

まだ主イエスを信じていなかった二十歳前後、私は武者小路実篤の本を好んで読んでいた。

新しき村」などをつくり、理想の生き方を探求した作家だ。

彼は、人間には良い面も悪い面もある、だから良い面に目を向けて生きよう、と主張していた。

私も、それもそうだと、賛同しながら読んでいた。

 

しかし、期せずして主を信じるようになり、聖書のみことばにふれるうちに、人間とはどうもそのような者ではないと知るようになった。

人の内側には「底が知れない」という表現がぴったりの深い闇がある。

 

エスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:20-23)

 

聖書は、たしかに人には「良心」があるとしているが、同時にそれは「汚れた良心」「邪悪な良心」であるとも言っている。

「きよい良心」は、神との平和を得てこそのものだと。

 

なによりも、真に神に従おうとすればするほど、自分の内に何一つ良いものが無いと気づかされる。

 

私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。(ローマ7:18-19)

 

エスさまは、このような人間の本性をよくご存知だった。

 

しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(ヨハネ2:24-25)

 

わたしの内に、どす黒い、底知れぬものがあることを認めざるを得ない。

「私ではなくキリスト」の信仰に立つときにのみ、そこから解放される。

地上の歩みは、それを追求する歩みでもあるといえよう。

 

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(ローマ7:25)

 

 

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