わざわいだ、わざわいだ、大きな都
彼女と淫らなことを行い、ぜいたくをした地の王たちは、彼女が焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣いて胸を打ちたたく。彼らは遠く離れて立ち、彼女の苦しみに恐れをなして、「わざわいだ、わざわいだ、大きな都、力強い都バビロンよ。あなたのさばきは一瞬にしてなされた」と言う。(黙示録18:9-10)
17章では世界的宗教に対するさばきが描かれ、18章では政治的・経済的システムに対するさばきが描かれる。
「大バビロン」と呼ばれる世界的宗教とその中心都市は、一日で滅びる。
「これらのことのため、一日のうちに、様々な災害、死病と悲しみと飢えが彼女を襲います。そして、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は、力ある方なのです。」(8)
冒頭の句では、「王たち」すなわち政治的指導者たちが嘆き悲しんでいる。
16節と19節でも「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ」という言葉がくり返されるが、こちらは「商人たち」とそれに関わる経済人たちの声だ。
彼らは地上で暴利をむさぼり、ぜいたくに暮らした。
物質的繁栄を謳歌した彼らは、世界的宗教と反キリストを崇め、これこそ真理だ、この世は実に素晴らしいと喝采したことだろう。
それが頂点に達するころに、神はさばきを下される。
「おまえの心が欲しがる果物は、おまえから遠ざかり、ぜいたくな物や華やかな物は、すべておまえから消え失せて、もはや決して見出すことはできない。」(14)
イエスさまは、かつてこう言われた。
「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6:24)
もしかすると世界的宗教というのは、たとえば現代資本主義のようなものかもしれないと、ふと思った。
神に仕えるか、富に仕えるか。
すでに現代資本主義は、現代人を虜にして“信奉”されている。
まるで素晴らしいシステムであるかのように、永続するものであるかのように。
わたしたちもまた、この経済システムの中で生活し、必要な財を求める。
そこに自らの心を肥え太らせる「ぜいたく」が潜んでいないかどうか、よくよく注意したい。
そして、いま一度、次の祈りをわが祈りとして熱心にささげたいと思う。
二つのことをあなたにお願いします。
私が死なないうちに、それをかなえてください。
むなしいことと偽りのことばを、
私から遠ざけてください。
貧しさも富も私に与えず、
ただ、私に定められた分の食物で、
わたしを養ってください。
私が満腹してあなたを否み、
「主とはだれだ」と言わないように。
また、私が貧しくなって盗みをし、
私の神の御名を汚すことのないように。(箴言30:7-9)