主に感謝することは、良いことです
主に感謝することは、良いことです。いと高き方よ、あなたの御名をほめ歌うことは。(詩篇92:1)
わたしは、キリスト信仰を与えられてはじめて、教会に讃美歌があることに合点がいった。
まことの神のすばらしさを味わうと、賛美せざるを得ないのだ。
朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を告げることは。・・・主よ、あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいました。あなたの御手のわざを、私は喜び歌います。(2・4)
朝に主の恵みを、夜に主の真実を思う。
いつもそうできるとは言えないが、そんな日々を重ねたいものだ。
主よ、あなたのみわざは、なんと大きいことでしょう。あなたの御思いは、あまりにも深いのです。(5)
主は大きく、深いお方だ。
悪者に対するさばきにおいても。
無思慮な者は知らず、愚か者にはこれが分かりません。悪い者が、青草のように萌え出で、不法を行う者が、みな花を咲かせても、それは彼らが永久に滅ぼされるためです。(6-7)
このような主の“高いさばき”は、これまでの詩篇にも何度か出てきた。
神を神とも思わず、むしろ己を神として歩むような者たちが繁栄する。
彼らが神を求めるようになる可能性は、とてつもなく小さい。
すなわち、永遠の救いを失うことになる。
これ以上、厳しいさばきはない。
正しい者は、なつめ椰子の木のように萌え出で、レバノンの杉のように育ちます。彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で花を咲かせます。(12-13)
主を恐れ、主を慕い求める者は、この世の繁栄は手にしないかもしれないが、永遠の救いを得る。
「主の家」「神の大庭」は、とこしえの世界だ。
彼らは年老いてもなお、実を実らせ、青々と生い茂ります。(14)
老年のクリスチャンが主を喜んでいる姿ほど、若い信仰者を力づけるものはない。
死の向こうにキリストと天の故郷を仰ぎ見て前進するさまは、主のみわざそのものだ。
こうして告げます。「主は正しい方。わが岩。主には偽りがありません。」(15)
年老いたときに、このように言えたら、ほんとうに幸いだ。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」(マタイ16:26)