あなたの住まいは、なんと慕わしいことでしょう
万軍の主よ、あなたの住まいは、なんと慕わしいことでしょう。(詩篇84:1)
詩人は、神の御住まいに想いを寄せる。
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って、絶え入るばかりです。私の心も身も、生ける神に喜びの歌を歌います。(2)
「主の大庭」とはどんな所だろう?
豪華さよりも、清らかさで満ちている気がする。
雀さえも、住みかを、燕も、ひなを入れる巣を、あなたの祭壇のところに得ます。万軍の主、私の王、私の神よ。なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつも、あなたをほめたたえています。(4)
ちょうどいまは、野鳥たちの子育ての季節だ。
つい先日も、くちばしのまだ黄色い雀の幼鳥が、親鳥の後をつき歩いて餌をもらっていた。
彼らもまた、「主の大庭」で安心して憩う。
彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧く所とします。(6)
実に美しい詩的表現だ。
いつも言うことだが、これは約三千年前の人たちの言葉だ。
日本でいえば、弥生時代になる。
わたしたち現代人は、ともすれば古代の人たちを“原始人”扱いし、見下しているところがあるが、とんでもない。
このような詩的表現ひとつとっても、彼らは現代人に勝るとも劣らない知性に満ちていたことがわかる。
いやむしろ、神を知っているという最も大切な知識においては、昔の人たちのほうがはるかにまさっているのだ。
まことに、あなたの大庭にいる一日は、千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは、私の神の家の門口に立ちたいのです。(10)
門番で十分、悪と共に生きるより、神の家の門口に立つほうがはるかにすばらしい、との告白だ。
まことに、神である主は太陽、また盾。主は恵みと栄光を与え、誠実に歩む者に良いものを拒まれません。万軍の主よ、なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。(11-12)
「神の家」と聞けば、イエスさまのお言葉を思い出さないわけにはいかない。
このイエスさまの告白を、わがものとして歩みたい。
すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存知なかったのですか。」(ルカ2:49)