だれの銘ですか
イエスはそのたくらみを見抜いて彼らに言われた。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(ルカ20:23-25)
「銘」という字をネットで調べてみると、一番最初にこう出てくる。
<銘/金属製の器具に刻まれた製作者の名。「銘を打つ」>
日本人として、すぐに思いつくのは「刀」だろう。
刀には、製作者の「銘」が刻まれている。
聖書によれば、すべての人は神によって造られた。
その意味では、すべての人に神の「銘」が刻まれている。
ところが人は、神を離れ、神を見失い、神を忘れて生きる者となってしまった。
愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。(詩篇14:1)
また聖書は、イエスさまを救い主として受け入れた者について、こう言っている。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6:19)
昨今よく聞く、「自分らしさ」「自分の人生」「自分の時間」「自分の余暇」などといった言葉とは、まるで反対だ。
神はわたしたちを愛するがゆえに、「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる」(1テモテ6:17)。
しかし、神から与えられるものを奪い取るかのように楽しむ権利は、本来わたしたちにはない。
むしろ、神の愛にこたえるべく、与えられたものを喜んでお返しし神にささげることを、神は望んでおられるのだろう。
イエスさまは、言われた。
「神のものは神に返しなさい。」(25)
罪人には、おもしろくない言葉として響く。
しかし、これこそがわたしたちの真の喜びの道だ。
さて、きょう、自分はだれのものだろうか。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)