ザアカイ。急いで降りて来なさい。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて、彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。(ルカ19:5-6)
「承認欲求」はだれにでもある心理だが、不正に手をそめてでもそれを満たそうとする人は、いつの時代にもいる。
ザアカイという男も、その一人だ。
もしかすると、人一倍「背が低い」ことで、子どもの頃いじめられたのかもしれない。
「よし、大金持ちになって見返してやる」と、彼は人から金銭をだまし取りながら、望みどおり資産家になった。
しかし、心は満たされなかった。
相変わらず、孤独だったのだ。
イエスさまが町をお通りになると聞いたとき、いても立ってもいられなかった。
いちじく桑の木に登ってまで、「イエスがどんな方か見ようとした」(3)。
「おお、見えた!あれがイエスさまか」と眺めていると、こちらに近づいて来られるではないか。
そして、木の上を見上げて、言われたのだ。
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(5)
ザアカイの驚きは、息の根も止まるほどだったろう。
もう少しで木から落ちそうになりながら、ザアカイは大喜びでイエスさまをお迎えした。
・・・ザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。」(8-9)
もしこのとき、イエスさまが素通りされたら、どうだっただろう?
あるいはザアカイが、遠くからイエスさまのお話を聞いただけだったら?
何かを感じ入ることはあったかもしれないが、ここまでの改心には至らなかったのではないか。
「ザアカイ」と名指しで読んでくださった。(私を知っておられた)
家に泊まってくださる。(私を受け入れてくださった)
これが、彼の心を溶かし、満たし、悔い改めに導いた。
長年の孤独から、一気に解放されたのだ。
「急いで降りて来なさい。」(5)
背が低かった彼は、自分を少しでも高く、大きく見せることで必死だった。
高ぶり、傲慢。
そこからも彼は、急いで降りることができた。
そして、人々に分け与え、仕える者に変わった。
もう肩ひじを張る必要はない。
主は私を知っておられ、受け入れてくださる。
安心して、新しい歩みに踏み出そう。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(10)
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」(イザヤ43:1)