いつでも祈るべきであり
いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。(ルカ18:1)
失望した者は、祈らなくなる。
祈る者は、失望することがない。
そして、信じて祈る者たけが、主の栄光を拝する。
イエスさまは、不正な裁判官のたとえを話された。
「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」ではあったが、重い腰を上げて、やもめの訴えに応じた。
なぜか?
やもめが「ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない」(5)からだ。
このやもめは、何度うるさがられてもあきらめなかった。
その「しつこさ」が、不正な裁判官をも動かしたのだ。
「まして神は、夜昼神を求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神はすみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」(7-8)
こう言われたあと、イエスさまはひとことつけ加えられた。
「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(8)
主が栄光を現わそうとされるときに、失望し、祈ることをやめていたとしたら、これほど残念なことはない。
この18章の終わりには、ひとりの目の見えない人の救いが記されている。
ナザレ人イエスがお通りになるのだと人々が知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま、私をあわれんでください。」と言った。先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください。」と叫んだ。(37-39)
人々は彼を黙らせようとした。
それでも彼はあきらめず、「イエスさまなら聞いてくださる。イエスさまなら直してくださる」と期待して叫びつづけた。
イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた。・・・イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」(40・42)
彼には、イエスさまを動かす祈りと信仰があった。
「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」、いま一度心に刻みたい。
「たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカ11:9)
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10:11)