からし種ほどの信仰があったなら
使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(ルカ17:5-6)
イエスさまは、弟子たちにつぎのように教えられた。
「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(3-4)
これを聞いた弟子たちは、(これは大変だ。いまの自分の信仰ではとてもできない)と思った。
だからこそ、「私たちの信仰を増してください」と主に願った。
ところが主は、「あなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら」と言われた。
つまり、あなたたちは自分ではある程度の信仰を持っていると思っているが、実はからし種ほどもないのだよ、とおっしゃっているのだ。
厳しいおことばである。
「信仰を増してください、強めてください」とはわたしたちの祈りであり、すなおな願いだ。
しかし問題は、そもそも「からし種」ほどの信仰があるのかだ。
「からし種」は、落とせば見つけるのが困難なほど小さい。
その信仰がもしあれば、桑の木も言いつけどおりになると、主はおっしゃった。
考えてみれば、わたしたちは、日々、「信仰」の中で生きているといえる。
なぜスマホで電話をかけたり、メッセージを送信したりするのか。
電波を通して相手に確実に届くと、信じているからだ。
かりに40年前にスマホを渡されても、大いに疑ったことだろう。
車に乗れば、アクセルやブレーキを踏んだり、ハンドルを切ったりする。
それで車がきちんと自分の「言いつけどおりに」動くと、信じているからだ。
100年前であったら、そんな馬鹿なと思ったことだろう。
一事が万事、わたしたちの生活は、“信じる”ことで成り立っている。
それと同じくらいに、主を信じているだろうか。
主が、ともにいてくださること。
主が、永遠の愛をもって愛してくださっていること。
主が、すべての罪を赦してくださったこと。
主が、祈りを聞いてくださること。
主が、必要のすべてをご存じであること。
スマホをかけるように、主に祈ろう。
エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。(ヤコブ5:17-18)